チャネルの雑記

いろいろ語りやーす

【55】東日本大震災のときの記憶②

つづきです。

 

 で、帰宅。両親はまだ働き中。とりあえずテレビをつけてみる。

 

 

 

…!!!

 

 

 自分の予想を遥かに超える被害の規模でした。ヘリコプターからの空撮映像はおぞましいものでした。しかもその映像がもっと恐ろしくなったのはこのあと。1日、2日、数日と経つごとに亡くなった人の数は増えていきます。そして現実とは信じがたい大津波の映像。あのときは本当に、テレビに映されていることが起こっているとは思えませんでした。

 

 そしてテレビには、津波が到達する可能性のある地域が日本列島の地図を使って表示されていました。

 

 太平洋岸は真っ赤…!

 

「ここまで来るんか…?」

 

とりあえず自分の身は大丈夫。兄弟も家に帰ってきた。

 まず、親、というか母に連絡し学校から帰ってきたことを伝える。家のなかでじっとして、テレビで引き続き情報を追うのがよさそうです。

 

が。

 

ばーちん!!!

 

家には、やさしいやさしい祖母が、離れに住んでいました。まじ好き。母屋からは5秒の距離です。

 

 「ばあちゃんおるか~??」

 

と離れで声をかけてみたものの。どうもおらんようです。

 

これは家に戻ってもらわねば!!

 

兄弟とばーちんの捜索を開始。行動範囲は広くない、行きそうな場所を探ってみる。

 

 

 

 すると、ばあちゃんはいつもお世話になっている近くの商店にいた。おお、よかったよかった。これもまた親に連絡。

 

 家でじっと待つ。というかテレビに釘付けでしたね。火災、津波、そしてときおりながれる、地震発生当時の映像。もしもこんな揺れが自分の町を襲ったら、、想像もできません。

 

 結局、自分の住んでいるところまで被害が出ることはありませんでした。ただ、同じ日本でこんなことが起こる、というのが恐ろしいばかりでした。

 

 

花は咲く

 

【54】東日本大震災のときの記憶①

※これは被災した記録ではありません。僕の単なるメモです。

 

 2011年3月11日から10年。月日が経つのはとても早いですね。

どうも悲しい哉、自分の記憶も薄れてきているのを感じます。私自身は地震の被害を受けておりませんが、当時のテレビの凄惨な映像の記憶はまだ頭の中にあります。

まだ記憶の断片があるいまのうちに、あの時 自分はどんな状況だったかここにメモしておこうと思います。

 

 どうしても全部真面目に書くことはできないと思うので、そういった文章を期待する人は読むのをやめてくださいね、すみません。

 

 

 

 当時、僕は中学生。みんな中二病真っ盛り、朝の挨拶は「昨日、また『世界』を救っちまったよ…」みたいな時期ですね。キモ。

場所は東北から遠く離れた片田舎。

 

 3月11日(木曜日)の何日か前…おそらく土曜日かな?震度5弱地震三陸沖あたりであって、「ありゃ、東北?」と思ったのは覚えています。でも震度5弱って日本では時々は見かけるレベルの強さで、「ちょっと強いの起こったんだねえ」ぐらいの会話を家族としただけだったような。確か結局、あれは前震だったんですよね。

 

 で、3月11日。実際に本震のあった午後2時46分、何をしていたか?ですが。

 

音楽室におりました。しかも学年全員。

 

全員といっても、そんなに多くないです。ギリギリ1クラスではおさまらないので、2クラスになったぐらいの人数です。音楽室というのは後方にいくと2段、3段と段差ができるので、机を運ぶのがめんどくさいですよね。

 

で 何をしていたかというと、学年集会。

内容は、、

ある生徒が学校で禁止されている「ケータイ」を持ってきていて、そしてそれを無くしてしまっていた という話。

 

 なんかトイレから出てきたらなくなってたとかそんな話だった気がする。まあ使用禁止のブツを持ってきてしかも紛失するってのはおもろい。自らバレにいくスタイル。

 

 で、コワーイ先生による内容の説明がされているとき、地震が起こったらしいんですよね。

「らしい」というのは、自分は正直感じていないってことです。周りのひとたちは「なんか揺れたな…??」みたいな感じだったけど、自分は言われて気づきました。

たしかに言われてみれば視界がぐらついたような…て感じでした。

 

 とりあえずそんなもんだったので、説明再開。その10分後ぐらいに、学年主任で理科の担当の先生が入ってきました。

 

「いまテレビを確認したら、東北の宮城あたりで震度7とのこと。これから先生たちは緊急会議になると思います」

 

 一瞬で教室がザワつきました。さすがにビックリ。さすがに震度7が、いちばん高い数値だということぐらいは知っている。

でも1995年の阪神大震災は知らないし、大きな被害の印象があった2004年の新潟中越沖地震ですら最大は震度6強。言われてもよくわからない。とりあえずとてつもないことが起こったことはわかりました。

 

 とりあえず集会は解散。先生が緊急会議している間、全員教室で待機という流れ。

 

果たしてこれからどうするのか?

 

まだ3時頃ですから、親御さんが働きに出ている家庭も多い。すぐ帰るということにもならないんじゃないか、じゃあ学校にいつまでいるんだろう、みたいな話をしてました。

 

 ちなみにぼくはこのときかっこつけて、

震源地からもし津波が来るとしたら、どれくらいで到達するか計算してみるよ」

と言って紙になにやら計算式を書いておりました。おまえ数学の点数がダントツで低いくせにいいかっこしようとするのはやめろ。小6で習った「みはじ」の式で単純にしようとすな。「えっ そんなことわかるの?」と言われ嬉しくなったものの、結局あんまり答えがわからず適当にごまかすんじゃねぇ。

 

 いやそのときはまじめだったんですが、いま考えるとただのかっこつけでした。右前は男子ですが、右隣と前の席は女子。ハイ以上。

 

 そんなこんなで夕方、4時頃だったでしょうか。先生から出された指示は、

「帰ることができる生徒は帰ってよし。親御さんに必ず連絡をとって、自分の安全を伝えること。そして一人ではなく、誰かと帰る。家が空いていないなどの理由があるなど、残りたい者は学校に残っていい。」

 

 確か徒歩通学で通っている人など、近い人は早めに帰ったような気がします。ぼくも友達と話したあと、徒歩で帰りました。

 

 

 遠い遥か彼方ではおそらく大変なことが起こっているようだ。しかし自分は部活が終わったあとの暗い道でもなく、まだ青い晴天の時間、ゆったりと帰路についている、と不思議な感覚でした。

何もいつもと変わらない青空が、なぜか奇妙にも思えました。テレビで実際の状況を目にするのは、帰宅したあとでした。

 

つづく

 

 

 

 

 

【53】(オリジナル小説)からあげ

 それは、ほんの些細なきっかけだった。

 

「今日はからあげよ!」

「おひょ~、そりゃ最高だねぇ!!」

 

 

 僕の彼女は料理がうまい。お世辞じゃあない。それはもうタイ料理からアゼルバイジャン料理まで、あらゆるジャンルをタイヤメーカーに勤めていた母親から教え込まれたそうだ。今日はなんと からあげ。まさに料理の最高峰、気分はエベレスト超えて大気圏、といったところか。

 

 「じゃあ、いただきやーす!」

 「どうぞめしあが…え?」

 

 「え?」

 

 彼女は自身が作ったからあげを見て固まっている。おそらくやわらかく、サクサクジュワジュワであろう からあげとはあまりに正反対、まるでテトラポットのような固さだった。予想だにしていなかった大きな波を、港町育ちの彼女はなんとかして跳ね返そうとしていたようだった。

 

 「なんでマヨネーズなの???」

 「ああ、なんだそんなことか。マヨネーズをかけてもおいしいんだよ、からあげって…」

 「何言ってるの!?そのまま食ったほうが食材のうまみがそのまま出るじゃない!何もかけずに食えや!」

 

 うわ、メンドクセエ。なんだこいつ、原理主義者かよ。「コーランに書いてあることが全てなのよ」とかいうタイプか?なんか急に口悪いし。だっる~。

 

 「はいはい、わかったわかった…」

 

それから、からあげが出てくることはなくなった。そして、日に日に僕たちの関係は悪化した。

 結局、1ヶ月後に彼女の作ったアルゼンチン料理に「マズッ」とこぼしてしまったのがきっかけで、ぼくらは別れることになった。料理も言葉も、こぼしてしまってはダメというわけだ。嗚呼、自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。

 

 「はぁ…久しぶりにからあげ食いてえ。僕の行ったことない、遠い町のからあげを」

 

 ただただ、からあげを食いたかった。ぼくの大好きだったあの揚げ物を、自分の知らない町で。

 

 「チッ、どこも食べログばっか検索結果に出てくるな。もっと詳しく…オ?」

 


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 「ケンチェラーラ?なんだこのロードレーサーみたいな名前…」

 


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 「インスタフォローで100g増量が無料!? すごすぎる…場所は三重県か!ちょうどいい、行ったことないけど行ってみるか!『富や』ってとこだな!」

 

 1人、車を走らせた。からあげが、僕を呼んでいる。詳細に書かれているブログの情報をたよりに、一路 三重へ向かう。涙で濡れた頬は、到着した頃には渇き切っていた。

 

 

「インスタ、フォローしました!」

 

しばらくして、100g増量したドデカイからあげたちが出てきた。

 

 

 気づいたら、口に運んでいた。それはもう、本能だ。からあげグランプリを受賞したらしいそのからあげの前で、「待つ」などできるはずもなかった。

 

 自分が猫舌であるということを思い出したのは、一心不乱に食べきったあとの、帰りの車中だった。

 

 

 

 

 

【52.5】持病のアトピーについて。

その5。てかこれ読んでるってことはここまで読んできてくれた人ですか?本当にありがとうございます。最後です。

 

 僕の親は、また時には祖父母は、本当に自分のことを気遣ってくれた(くれている)。多くは口にしなかったが、自分がアトピーを持って生まれてきたことを申し訳なく思っていると、謝られたこともあった。

 

 しかし僕は、そんなことまで謝る必要は全くないとずっと思っている。誰でも子どもには、できる限り健常に(この言葉の使い方も難しいが)生まれてきてほしい。でも僕はこのように生まれた。じゃあ、なんとか向き合ってみるまでだ。

 

 無論、「病気だからこそよかった」とか「それも個性だ」とは全然思わない。こんな苦しみないほうがいい。こういう気持ちになれたのもある程度症状が落ち着いた今だから言えることで、昔はどう思っていたか覚えていない。

自分でない他人のアトピーさえ、治癒したと聞いたらとっても嬉しくなることができる。

 

 ただ、親の気持ちも少しわかってしまうのも事実なのだ。こんなことを言ってても、もし自分に子どもができたとして(そんな世界線が存在するのかわからないが)同じアトピーを持っていたら…

 

申し訳ない気持ちになってしまうだろう。

 

 でも自分の親にだけは、せめて「僕がどうとも思っていない」ということはわかってほしい。そう思って、成人した誕生日にそのことを書いたメッセージを置いて、実家から大学の下宿先に戻った。

 なんかいい話風にしてるが、本当は実際に話して伝えるべきだったんだろう。でもこっぱずかしすぎて、直接言うのは無理だった。いまだに恥ずかしがりなのである。カアア///ww

 

 だいたいそんなこと以上に、たくさんのものを与えてくれた、というかさせてもらった。肌が大変になることはわかっていても、例えば水泳や野球もさせてくれた。

 

 したいことをしていったなかで、観光や音楽といった大好きなものも見つかったし、これからやりたいことはたくさんある。

 

 だからこそ、一人で生きていけるようになりたいと思っている。これまで支えてもらいすぎたので、自立して…

 

 

 

 

とかっこよく言いたいが、部屋の掃除は下手くそだしクレカは使いすぎるしいまだに叱られている。大学時代なんか、実質的に部屋を掃除してくれたのは友達である。ちなみに昨日は野菜ジュース(1000mlのパック)を気づかぬうちに踏んづけこぼした。うーむガキ。さっさと冷蔵庫に入れろよ。

 

まだ、かっこよく自立できる日は遠そうである。サーセンw。

 

 

 

とまあ、自分の経験談はこれぐらいにしておこう。長すぎるのもあれだし。すでに長いか。

 

 

どうでしょうか。

もしあなたがアトピーを持っている年上なら…先輩ですね。その年まで生きたあなたを素直に尊敬します。

 

同年代なら…やー大変だよな。でも俺たちここまで生きて、偉いよな。

 

年下なら…いろいろ悩み、あるだろ。少しはおれもわかる。泣きたいとき、人知らぬところで素直に泣いてオッケー。弱さを嘘の強さで隠す必要はないぜよ。でも人に当たるのはやめたほうがいい。打ち明けるのはオッケー。そのつどそのつど、なんとか消化してみようや。将来、治らんかもしれん。でもどこかで楽しいことを、会えば嬉しくなる人を見つけられることを願ってる。

 

 

 もっときつい症状や病気の方にとっては、「そんなくらいで」と思われるかもしれません。ただ、自分にとっては十分すぎるほど大変なことなので、文字にして残したいなと思ったんですよ。

 

 なんかまとまりのない文章になっちゃいましたね。でもきっと、どこか伝わる部分があったんじゃないですかね。こういうネガティブなことはなかなか現実では言い出しにくいし、優しいみなさんはあまり言わないと思います。これを機会に知ってくれたり、共感してくれた人がいれば、

 

 

とーーーーーーー(小野正利のロングトーン)っても嬉しいです。

 

本当に読んでいただきありがとうございました。キモい口調になっちゃったなーw

 

明日もなんとか、元気に生きれるとええなー。

ではまた!

【52.4】持病のアトピーについて。(友達、先生)

その4。

 

 アトピーを理由としたいじめというのは、問題として難しい。なぜなら原因は「お肌」にあるわけで、小さな子どもが自身で変えるのはあまりに難しい。親御さんにとっても歯がゆいものがあるだろう。自分のことを本当に心配してくれる親の姿を見て、子どもながらそんなことを思っていた。

 しかしそんな中で普段は元気な姿を見せることができていたのは、友達や先生のおかげである。

 仲良くしてくれた男友達のことは、本当に今でもよく覚えている。

 

 

 小学校で下校のメンバーを決める時間に、保育園で一緒でもなかったのに誘ってくれたやつ。

…帰り道ドラえもんの話ばかりしてすまなかったな。

 

 いきなり自分の家に遊びに誘ってくれたやつ。

…2階の畳の部屋、よかったなあ。映画『ジョーズ』、こわかった。

 

 カードゲームでよく戦ったやつ。

やっぱ罠カード「魔法の筒」で決めるのが気持ちいい。フッ、絶望にひれ伏した顔が目に浮かぶぜ。

 

 野球やドッジボールに誘ってくれたやつ。

ドッジボールで最後の一人になっても避けまくってたので「はよボールとってや」て言われたな。ウフフ、だってボールこええしw。

 

…と、この勢いで中学、高校、大学で出会った素晴らしい人たちのことを書いていくとそれはもう六法全書みたいな長さになってしまうので(大嘘)もう書かないが、とにかく優しいやつらばっかである。

 

 小学校のときの先生も、自分にとって安心させてくれる存在だった。特に1年、4年と2度担任になった先生は、都度都度気にかけてくれて本当にありがたかった。2年のときの先生はテストでいい点をとるとお褒めの言葉を書いてくれて、ずいぶんと嬉しかった。

 おおやばいやばい、懐古厨みたいになってきたぞ。そういや久しぶりに中学の友達からLINE来たと思ったら、投資のお誘いだったのは笑ったけどな。まず働こうな。

 

 このような周りの人々の優しさ(もちろん面倒くさいやつもいたが)に気づけたのは中学3年の頃。それまで当たり前だと思っていたことが、実はとても有り難いことだとわかった。

 それ以来、自分もできるだけ人にやさしくできる人物でありたい、またそうするように心がけている。それでもアトピーがひどいときなんかは、そんなこと考えられる状態ではないんだが。笑

 

 

 ただ、いまだに宿泊をする旅行などに一緒に行くと、多少気になることも多い。風呂のあとには保湿に時間がかかってみんなより遅れるし、朝起きて布団に 掻いたことによる血がついてないかハラハラする。もし気づかぬうちに迷惑をかけていたら、本当に申し訳ない。そして我慢してくれてありがとう。

 

つづく

 

 

【52.3】持病のアトピーについて。(他人の目など)

その3。

 

 アトピー性皮膚炎の患者にとってどうしても気になるのが、「他人の目」である。

 もちろんそもそも、どうしても普段から人の目、他人の目が気になりながら行動してしまうという性格という人がいるのはわかっている。これはまた、なんというかベクトルが微妙に違う気がする。

 

 その1で長袖、半袖の話を出したが、どちらにせよ顔や手、首といった部分は誰にも見えている。僕なんかはいつも赤ら顔で、どうしても初対面の人など特に気になるだろう。朝起きたら顔に傷ができていた、なんてこともある話で、まあ鏡を見て絶望である。さすがに隠せるわけもなく、うつむきながら学校に行く。そんな経験はいくつもある。

 

 ちなみにこれは、大学1年生のときに友人に相談した「女子と目を見て話せへんのやけど…」というテーマとはまた別の話である。それは解決方法がたぶんまったく別のところにある。だれか教えてくれ。

 

 手はいつもおじいちゃんの手のようにシワシワだ。自分のギター動画を見ていても、まあ正直気になる。一人で机で勉強していても、目に入ってしまうのはこの部分、というわけだ。

 これはあくまで自分の話だが、あまり人の目、顔を見て話すのがいまだに得意ではない。僕は保湿に白色ワセリンというのを使うのだが、これを使うとどうしてもテカテカ、ベタベタになる。真正面から話そうとすると、「…おれの顔どう見えてんのかなあ」と思ってしまうときがある。気づいたのが大学生ぐらいの頃で、いくぶんかマシになったのかもしれないが。

 以上はなんというか物理的な話で、精神的にも他人の目は気になることも多い。「アトピーの自分が、こんなことやっててどう思われるのかな?」とか、思ってしまう人は多いのではないだろうか。

 アトピーを理由にいじめを受けたり、疎外されたりといった例はおそらく多い。それにより自身の自信の喪失、または自信をつけられなくなるという状態になる、というわけ。

 

 僕はといえば、小学校では隣の人と席をくっつけるスタイルの学校だったのだが、席替えで横になった女の子に机を離されたりした。「机をくっつけたくない」というわけである。自分が近づいたのに気づくと、スススッと離れていく…みたいなこともいつものこと。自分も病気のことをわかっていたし、「そんなもんなんだろうな」ぐらいで過ごしていた。

 ただ、これぐらいのこととして済ませられたのは、後述する小学校で出会った男友達や理解のある先生方の存在が大きかった。今はその中で会うのはごく少数だが、アトピーを理由にいじめてくるような輩がおらず、自分でも恵まれていたなと今でも思う。

 ちなみに女子たちに関しては、明確には覚えていないが小学校の高学年の頃から特に避けられるということがなくなっていた。症状が軽くなっていたわけでもなく、理由は今でもわからない。もしかしたらなぜか国語の漢字テストが謎に得意で、「漢字博士」というアダ名をもらっていたのが功を奏したのかも…しれない。もしかしたらウラではいろいろ言われてたのかもね。

 繰り返すが、このブログはアトピーを理由としたいじめなどの解決には、残念ながらなんの役にも立たない。ただ、「自分はこういう経験しましたよ」というのを伝えたいのである。

 

 

 

 

【52.2】持病のアトピーについて。(乾燥や入浴)

その2です。

 

(前回の記事で、見ず知らずの方(そうじゃないかもしれんけど)にもスター押してもらったようです。どうもありがとうございます、とても嬉しいです。)

 

 残念ながら、アトピーが1日として、というか1時間として、自身の意識から無くなることはない。視界に傷がついていたり赤く染まった肌がすぐ入るし、かゆみ、痛みがいつもどこかにある。久しぶりにメガネを変えたりすると、視力の上昇を感じると同時に

 

「Oh…ワイの肌…」

 

となってしまうもんである。

 

 なかなか画期的な治療薬があるというわけでもなく、基本は整った生活、保湿をしてかゆみに耐えるしかない。「年齢が上がっていくとだんだんと治癒していく」という人は一定数いるようで、自分も子どものころと比べたら(精神年齢はいまも3才ぐらいなわけだが)よくなった。というか、「かくのをできるだけ耐える」自制ができるようになったと言うべきかな。

 まあ前述したように、はっきり言って自分の生活スタイルは不健康である。だから、「アトピーしんどいわ~」みたいなことは愚痴のように自分から言うことはしないように気をつけている。そんなことは、食生活や部屋の清潔さを考えながら暮らしてもなお苦しんでいる人が言える言葉だろう、と思う。

 

 アトピーの人がよく一緒に悩まされるのが、乾燥肌だ。肌のバリアが弱く、水分が不足するのでカサカサになる。朝起きるとひからびた状態なので、シャワーを浴びてすぐさま保湿。これが早く塗らないと大変で、天然のドライヤーついてんじゃね!?ってぐらいにお肌君は乾いてゆく。

 

 この水分を保つためのシャワーや入浴という行為、これがまた難しい。幼少や小中学生の頃など、

 

お湯がしみるしみる!!

 

悲鳴をあげるとかそんなレベルではない。

「グッ…ぐあああ…イッ…」

てな感じ。修行僧かよ。

はっきり言って風呂など入りたくなかった。風呂に入れば傷が痛み、シャワーを浴びれば熱湯でしみ、あがったら乾燥してかきむしりたくなる。それが敏感肌というものらしい。あと、親戚のおじさんと入ったときに、大事なところをイジられるのは勘弁してほしかった。これはあまり関係ない。

 

 大学生ごろになると、かかないように我慢することで傷が少なくなり多少落ち着いてきた。乾燥したままシャワーを浴びずに耐えるよりは、お湯を浴びるほうが気持ちいいと感じるようになってきた。

一人暮らしでシャワーを浴びるときは

「キアアアアアアキモチイイイゼエエエエエエ」

って言ってるし(原文ママ)、各地の温泉を巡るのも好きになった。温泉が好きな理由には、「自分の肌の治癒に、少しでも協力してくれないかな」

と思っているというのもある。

 

 

f:id:oreyadetalk:20210122112219j:image鬼怒川温泉。キモチエエ~~

 

浴室で叫んでるのを聞いて隣人がどう思ってるのかは知らないが…

 

 「かくのを我慢する」といったが、残念ながらかいてしまうこと自体は「気持ちいい」。これがなかなか厄介で、そのときは気持ちよくてもあとで傷になり、悩まされることになる。永遠のループである。

 

 

つづく